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[古地図こぼれ話3]毎日新聞ならまち暮らしでも取り上げられた京終天神社の歴史について

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作家の寮美千子先生の連載、毎日新聞のならまち暮らしで、奈良京終地域に鎮座する京終天神社(飛鳥神社)が話題に採り上げられました。

ja.wikipedia.org

記事中で京終天神社の社伝と歴史書に残る史実の違いについて触れられていますが、この記事の作成に、私がそれまでに調べていた情報などを提供して協力させていただきました。
本ブログで、毎日新聞側記事では字数などの問題で載らなかった詳細を補足させてもらいたいと思います。

江戸中期の書物「奈良坊目拙解」には、京終村と高畠村(現在の高畑町)で水争いがあり、百姓を殺害された高畠村が幕府に訴えて出たという血生臭い事件が記されている。このとき、京終村の人々が京都の北野天満宮に加護を祈ったところ、無罪となり、京終村が高畠村より先に取水することを許された。そのしきたりが、いまでも続いているそうだ。

これに感謝して北野天満宮が祀(まつ)る菅原道真を祀ったのが、北京終町にある「京終天神社」であるという。

享保15年(1730年)ごろ成立した奈良の地誌、「奈良坊目拙解」の「京終町」の条には上記記事引用の通りの内容が、年月等には触れないままに記載されています。
その訴訟勝利の神恩に感謝するため、天神社の祠を祀ったのが、京終の天神社の始まりだと記されています。
同じような記録は延宝6年(1678年)ごろ成立した別の奈良の地誌、「奈良名所八重桜」の「富士権現」の条にも似たような記録が残っており、同じように京終村が水論で他の村と争って幕府で訴訟になり、勝利を神に祈って勝てたためその神を勧請したという記録がありますが、八重桜ではいくつかの違いがあり、

  • 水論をして村人を殺してしまった相手の村は高畠村ではなく鹿野苑
  • 勧請したのは天神ではなく富士権現。また、新たに祠を作ったのではなく、元から伊勢、春日を祀った京終村氏神があったところに、追加で勧請した。
  • 年代は不明ではなく慶長18年(1613年)と明確

といった違いがあります。

これらの地誌は現在から比較するとはるかに近い時代の事柄を記録していますが、しかしながらどうしても同時代の一次資料ではないため完全に信じることはできませんが、同時代の一次資料的記録として、「本光国師日記」と呼ばれる金地院崇伝の日記に、慶長19年(1614年)4月20日の条として京終村水論の訴状が残されているそうです。
そのため何らかの史実に基づいているのは間違いなく、奈良坊目拙解と八重桜の記述の違いは似たような事件が2つあって京終には天神と富士権現の両方があったのか、それとも八重桜が天神を富士権現に取り違えて記録したのか*1まではわかりませんが、何れにしてもその他の地誌まで確認しても、江戸期の記録に見える京終の神社は天神または富士権現とした記録のみで、今の飛鳥神社祭神とされる事代主神を祀った記録は一切残されていません。

飛鳥神社の今に残る社伝を信じると、江戸期どころか室町の初めには、元興寺鎮守の飛鳥神社が京終に移転していたはずなのですが、その存在が京終村の記録として奈良の地誌に残っていないのはどう考えても変です。

ここから、「京終天神社」は、明治・大正期には「紅梅殿社」と呼ばれるようになった。

1889年(明治22年)の奈良絵地図 s.maplat.jp

1917年(大正6年)の奈良絵地図 s.maplat.jp

などでは、確かに紅梅殿神社と記されています。

無格社だったこの神社が宗教法人として法人格を取得したのは1953年(昭和28)。申請書に「明日香鎮座の元興寺鎮守社が、平城遷都に伴って平城京に移されたもの。古くは平城坐飛鳥天神社と呼ばれていた」という旨の社伝が記されているので、その名を掲げ、以来「飛鳥神社」と呼ぶことにしたという。

先にも書きましたがこの「明日香鎮座の元興寺鎮守社が、平城遷都に伴って平城京に移され(て、さらに室町初めに京終に移された)」という京終村の記録は、1953年の宗教法人の申請書に書かれた社伝以外には一切残っていません*2
では、京終村以外では残っているのか?というと、実は残っています。
先にも出た「奈良坊目拙解」の、「西ノ新屋町」の条には、同町内に「飛鳥神並神社」一座が鎮座している、という記録があり、元々元興寺鎮守社で、高市郡の飛鳥法興寺から遷座してきた、と記されています。
それに続けて、「近世(この飛鳥神並神社を)率川明神と号すがよくない説で、飛鳥川は率川と和語が似ているので謬って伝えたので正さなければならない」と「奈良坊目拙解」には記されていますが、これが今に残る西新屋町の率川神社です。

ja.wikipedia.org

同様の記録は、やはり江戸時代の地誌である「本朝佛法最初南都元興寺由来」や、1890年(明治23年)発行の「平城坊目遺考」などにも、やはり「飛鳥神並社、今は誤って率川神社あるいは率川阿波神社となる」という形で記されています。
京終飛鳥神社の社伝と比較して、

という点で一致しており、これに「室町初期に京終に移された」という項目を加えると、そのまま京終飛鳥神社(京終天神社)の社伝になります。
ところが実際には、飛鳥神社社伝が京終に移ったとするよりはるか後の江戸期資料でも、この元興寺鎮守社が京終に移ったという記録はなく、西新屋町の率川神社こそが飛鳥神社を名乗るべき、という記録しか残っていません。
この事は、江戸時代よりも後の後世に、西新屋町の率川神社の由緒を参考に、京終飛鳥神社の社伝が創作された可能性を強く示唆すると思われます。

それでは、飛鳥神社社伝が創作されたとして、いつ頃創作されたのでしょうか。

まず京終天神社側の状況は、「ならまち暮らし」内にも書かれ先に古地図2枚を引用したように、明治大正期は京終天神社は紅梅殿神社と呼ばれ飛鳥神社とは呼ばれていなかったので、社伝を創作する意味がありません。
西新屋町率川神社の方は、

1889年(明治22年)の奈良絵地図「率川飛鳥神社」と記されており、まだ「飛鳥神社」の名称が残っている s.maplat.jp

1917年(大正6年)の奈良絵地図、「阿波神社(率川阿波神社の略か)」となっている s.maplat.jp

となっており、率川神社=飛鳥神社であることが大正期に忘れられつつあったのではないかと推察されます。

つまり大正までは社伝を創作する目的がなかったので創作は昭和以降という事になりそうですが、ではいつ創作したのかという事になると、「社伝」などというものを登録しなければいけなくなった戦後、宗教法人として法人格を取得した1953年(昭和28年)その時ではないかと私は考えます。
宗教法人になる際に社伝、由緒を登録する必要が生じて、中世の大火で古文書が失われ伝わってきた社伝がなかった京終天神社が、忘れさられつつあった西新屋町率川神社の社伝を借りて創作したのではないか、というのが私の考えです。

社伝が100%創作物だ、という証拠はありません。
また、社伝が創作物であってもそれがどうした、寮さんもならまち暮らしで書かれているとおり、信仰の場で人々が何を心の拠り所にしているのかこそが大切だ、ということもわかります。
が、一方で私は、京終の鎮守が、そんな国家鎮護元興寺のそのまた鎮守社だった、などと言うような大仰なものでなくても、京終村を昔から水論で勝てるなどの現生利益で守ってくれた、地元密着の身近な守り神だった、それだけで十分ではないかと思うのです。
また心の拠り所だからこそ、それが正しくどのような言われがあってどういう歴史を辿ってきたのか、どう祀られてきたのか、正しく伝えられていくべきだと思うのです。
また少なくとも、伝説の領域を外れた史実を語る場では、今は社伝を元にしてしまっているため、本来は史実が語られるべきはずの奈良市史、奈良県史などでも京終天神社を「元興寺鎮守社だった」と記してしまっていますが、今後はそのようなことがないよう、史実が史実として紛れなく伝わっていくよう、情報を残していかないといけないと思うのです。

そのような思いを込めて、このブログ記事を残させていただきました。

*1:全般的に、その他の項目を見ても「八重桜」は他の地誌と比べて独特の言葉遣い、例えば他の地誌では勧修坊と記される寺を寛俊坊と記したり、勝願寺を聖願寺と記したり、と言ったものが多いので、記録間違いを疑う余地はありそうです。

*2:ただし、その新しい社伝より後に記された書物で社史を参考に書かれたもの、例えば奈良市史、奈良県史、角川日本地名大辞典などにはこの記録が採用されています。

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