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[古地図こぼれ話1]重要文化財、奈良称名寺薬師如来像の来歴をつきとめたかもしれない話

近鉄奈良駅から北西にいったあたりに、称名寺というお寺があります。

ja.wikipedia.org

茶人として知られる村田珠光が出家していた寺としても知られる同寺ですが、かつて同寺の山門外西側に薬師堂があり、そこに薬師如来立像が納められていました。
今は国の重要文化財となり、奈良国立博物館に寄託されている仏像です。

imagedb.narahaku.go.jp

上記には写真は含まれていませんが、写真は称名寺さんのWebページ内のこちらで確認することができます。

今回の記事は、この薬師如来像の来歴をつきとめたかもしれない、という話です。
知人の歴史研究者への確認や、奈良県立図書情報館のリファレンスなどを使って同様の説が過去にあったか確認してみましたが、調べられた範囲内では見つけられていないので、もし見つかっていない論文等がない限りは新説、ということになります。
本来は歴史学会などに論文として出すべきなのかもしれませんが、私は歴史の学会にも属していないし、論文の書き方もわからないのでまずブログ記事としてみました。
専門家の方、どう扱うべきかアドバイスなどいただけましたら大変嬉しく思います。

まず結論としては、

  • 称名寺薬師如来は、江戸中期まで奈良市高畑町字本薬師の、現在奈良教育大学構内の本薬師と呼ばれた薬師堂に安置されており、それが江戸時代の間に興福寺塔頭の勧修坊、奥芝町の奥芝辻薬師堂への移動を経て称名寺に伝わった可能性が非常に高い
  • 本薬師と呼ばれた薬師堂に安置された薬師如来には、江戸時代の時点で、源頼朝から南都の僧に与えられたもの、という伝説が伝わっていた。同時代史料がないのでこの真偽はわからないが、称名寺薬師如来の学術的な年代推定も鎌倉時代であり、非常に近い

というものになります。
なぜそのような結論となったのか、経緯をこれよりお伝えします。

はじまりは古地図の上の「なんだこれ?」

はじまりは、古地図の上で「なんだこれ?」というような記述を見つけたことでした。

s.maplat.jp

上記のリンクの場所ですが、この周辺、私が奈良に住んでいた頃に居住していた場所でした。
古地図上には、変体仮名混じりで「きかいが嶋」と書かれているのですが、周辺の「かがみ明神」「きびづか」「かげ清地蔵」などは現在にも残っているものの、この「きかいが嶋」にあたるものは全く残っていません。
「きかいが嶋」のそばには「奥芝辻にひける」といった但し書きが書かれていますが、これの意味もさっぱりわかりません。
そこで興味を持って、奈良の地誌などを紐解いてこれの正体を調べ始めたのです。

高畑鬼界ヶ島には本薬師と呼ばれる薬師堂があり、頼朝から下賜されたとの伝説がある薬師如来十二神将像があった

その調査結果は、実はもうWikipediaにまとめてあります。

ja.wikipedia.org

上記のWikipediaは、私が書いたものですが、Wikipediaでは自分の研究は書けないため、飽くまで奈良の地誌などに残っている記述を引用する形で、断定せず複数解釈が存在する場合は両論併記的に書いております。
が、このブログは私のメディアですので、もう少し断定調に近い形で書こうというのがこの記事の目的でもあります。

いずれにしましても、江戸期の奈良の地誌、『奈良坊目拙解*1』、『南都年中行事*2』、『平城坊目考*3』などによると、この現在は『奈良市高畑町字本薬師』と呼ばれる地域に、『鬼界ヶ島』と呼ばれる一角があったというのは間違い無いようです。
鬼界ヶ島と呼ばれるようになった理由については、伝説としてこの地に俊寛が隠れ住んだとの伝説があったためと思われますが、薬師如来の来歴とはさほど関係がないので詳細は省きます(興味があればWikipediaを見てみてください)。
重要なのはそれらの地誌を見ますと、この鬼界ヶ島の地に、『本薬師』という薬師如来十二神将を祀った薬師堂があったという記録が残っていることです。
この『鬼界ヶ島本薬師の薬師如来』が、経緯は順次後述しますが『称名寺重要文化財薬師如来』に一致する可能性が高いのです。
またその薬師如来の来歴に対して、『奈良坊目拙解』『平城坊目考』等の地誌では、源頼朝勧修坊周防得業という奈良の僧侶に賜った薬師如来であるという言い伝えが記載されています。
この勧修坊周防得業というお坊さん、頼朝に追われていた義経を奈良で一時匿ったものの、それを咎められて頼朝に鎌倉へ呼び出されますが、逆に頼朝の非道を論理立てて諭して頼朝に感心され、鎌倉で勝長寿院というお寺を任されたという逸話のある方です。
のちに奈良に戻ってくるのですが、それほど頼朝に感服されたお坊さんですから、戻るにあたり餞に仏像など賜っても不思議ではありません(残念ながら同時代史は残されていないようですが)。
奈良の地誌の記録は江戸時代の記録であり、頼朝の同時代史ではないので信憑性については疑問が残りますが、重要文化財となっている薬師如来像の推定作成年代が鎌倉時代であり非常に近いので、簡単に眉唾とも言ってしまえない状況です。

鬼界ヶ島本薬師の廃亡に伴い、一時興福寺塔頭の勧修坊へ

その後、鬼界ヶ島本薬師の薬師堂の廃亡に伴い、薬師如来像は一時興福寺塔頭の勧修坊に移され、その後奥芝町の奥芝辻薬師堂に移送されます。
最初の古地図に「奥芝辻にひける」と書かれていたのは、この事をあらわしていたようです。
この鬼界ヶ島本薬師の廃亡、勧修坊への移動および奥芝辻薬師堂への移動はどの地誌でもほぼ一つの出来事的に書かれているので、ほぼ同時期に起こったことなのか、勧修坊にもそれなりに長期間いた後に奥芝辻に移動したのかはよくわかりません。
時期についての記述も、地誌によって寛永年間(1624〜1645)と書いているものもあれば万治年間(1658〜1661)と書いているものもありはっきりしません。
寛永に鬼界ヶ島本薬師から勧修坊への移動、万治に勧修坊から奥芝辻への移動が起きていたのかもしれません。

この勧修坊という塔頭、古地図上では

s.maplat.jp

こちらにあたりますが、今でいうと荒池(当時はありませんでしたが)のほとり、高畑天神社)の裏あたりに当たる地域です。
この勧修坊への移動は、鬼界ヶ島本薬師が元々興福寺勧修坊の管理下にあったことが原因と思われます。
元々本薬師の薬師如来自体が、勧修坊周防得業に与えられたという伝説があるものですから、その管理が得業の住坊であったと思われる勧修坊になるのも不思議ではありません。

この勧修坊という塔頭は、義経とも所縁が深い勧修坊周防得業の住坊だけあって、義経が一時潜伏したという言い伝えもあり、義経が出立する際に鎧の籠手を残していったのが伝わっていたという記録があります。
その籠手は今は春日神社に移って現在も伝わっており、国宝になっています。

bunka.nii.ac.jp

勧修坊についても、いつかWikipediaに書いてみたいと思っております。

勧修坊から奥芝辻薬師堂へ、ケチな坊主のために失われる十二神将

さて、先に書いた通り、薬師如来像はしばらく勧修坊にいた後、奥芝辻薬師堂へと再度移送されます。
奥芝辻薬師堂はこちら。

s.maplat.jp

『奈良坊目拙解』『平城坊目考』等の地誌から見ても、鬼界ヶ島本薬師から勧修坊への移動は少し前時代史に当たるかもしれませんが、勧修坊から奥芝辻への移動はほぼ同時代史だったようで、街の古老の話として、勧修坊から奥芝辻まで車を曳いて移動する際に、街の人に結縁のためと称して車を曳かせていた、といった聞き取り記録が残されています。
またこの時、残念な出来事が起きてしまいました。
『本薬師』の薬師如来は最初に作られた際から十二神将像がセットであり、鬼界ヶ島本薬師から勧修坊までその1セットは漏れなく移されていたようなのですが、奥芝辻への移送にあたり、勧修坊の僧侶が移送費をケチったために、薬師如来のみが奥芝辻に送られ、十二神将は勧修坊にとどめおかれました。
その結果、十二神将はその後行方知れずになってしまいました。
薬師如来と一緒に奥芝辻に送られていれば、十二神将像もあわせて現代に伝わっていたかも知れず、とても残念です。

奥芝辻薬師堂も廃亡するにおよび、いよいよ薬師如来像は称名寺、そして奈良国立博物館

これまで主に参考にしてきた地誌は『奈良坊目拙解』『南都年中行事』『平城坊目考』等になりますが、奥芝辻薬師堂への移動以降は江戸時代も後期の様相になりますので、次の時代の地誌である『平城坊目遺考*4』を参考にすることになります。
奥芝辻に移ってしばらくは周辺の信仰を集めた奥芝辻薬師堂と『本薬師』薬師如来像ですが、廃亡の時期ははっきりとはわからないものの、廃亡するに及んでこの薬師如来像は、近くの菖蒲池町称名寺、山門の傍に移設されたとの記録が『平城坊目遺考』に残っています。
また、これまでの地誌では残されていなかったのですが、『平城坊目遺考』で初めて、『本薬師』薬師如来像の高さが五尺(1m50〜60cm)という記録が残されますが、このサイズは称名寺重要文化財薬師如来像の高さ(164.5cm)とほぼ一致します。

そして、後に称名寺薬師如来像は重要文化財指定され、奈良国立博物館へ寄託されるわけですが、この時の話について称名寺の住職さんにメールインタビューしたところ、

重要文化財薬師如来が収められていた)薬師堂は、現存いたしませんが、山門外の西側に有ったと伝えられております。

との話をいただいており、これも『平城坊目遺考』の「菖蒲池町称名寺、山門の傍に移設された」という記述と合致します。

このような地誌の記述を追っていった結果と、そしてところどころでの記されている事象の合致

があることより、私としては、記事最初に示した事項、再掲しますと

  • 称名寺薬師如来は、江戸中期まで奈良市高畑町字本薬師の、現在奈良教育大学構内の本薬師と呼ばれた薬師堂に安置されており、それが江戸時代の間に興福寺塔頭の勧修坊、奥芝町の奥芝辻薬師堂への移動を経て称名寺に伝わった可能性が非常に高い
  • 本薬師と呼ばれた薬師堂に安置された薬師如来には、江戸時代の時点で、源頼朝から南都の僧に与えられたもの、という伝説が伝わっていた。同時代史料がないのでこの真偽はわからないが、称名寺薬師如来の学術的な年代推定も鎌倉時代であり、非常に近い

ということが成り立つ可能性が高いと考えています。

*1:村井古道著、享保20年(1735)発行、私の調査は喜多野徳俊訳註の1977年綜芸舎発行本に基づく

*2:村井古道著、元文5年(1740)脱稿、私の調査は喜多野徳俊訳註の1979年綜芸舎発行本に基づく

*3:久世宵瑞著、寛政7年(1795)成立、私の調査は金沢昇平校正の1890年阪田購文堂発行本に基づく

*4:金沢昇平著、1890年、阪田購文堂発行

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