Code for History

"Code for History"はIT技術を歴史学上の問題の解決に使うコミュニティです。強調したいのは、我々にとってIT技術は「手段」であって「目的」ではありません。「目的」は歴史学上の問題を解決する事であって、必要であればITでない手段も活用します。常に最優先なのは、問題を解決することです。

Maplatが「線を線に変換する」新機能に対応しました。実証サンプルとして宇野バスのバス運行路線図Webアプリ作成。

私の開発している古地図絵地図アプリMaplatですが、Maplatリリース0.5.2以降、MaplatEditorリリース0.3.2以降で、「線を線に変換する」機能に対応しました。
どういうことかというと、これまでのMaplatは古地図と正確な地図の対応を、例えば交差点と交差点というような点と点の対応づけで定義してきました。
が、当然複数の交差点と交差点の間にはそれを結ぶ線としての道があるわけですが、正確な地図上での道を歩いても、その変換結果が対応する絵地図側の道にぴったり乗ってくるとは限らないという問題がありました。
具体的には、英語の発表資料からの引用ですが下の図のような状況になります。

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これまでのMaplatで道が正確に変換されない事例

Maplatでは対応点群が与えられた際に、自動でその対応点を用いた三角網が計算され、その三角網内でのベクトル演算で座標変換が計算されます。
その変換手法の特性上、三角網の辺上の点は正確に辺上に変換されるので、偶然対応点間の道路に三角網の辺が重なればその道路は正確に変換されますが、もし道路が三角網の辺と交差してしまった場合、その道路上の変換は正確に変換されない可能性がある、という問題がありました。

新しい機能では、それを以下のような手法で解決しました。

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対応点同士を結ぶ道路の上に対応線というものを導入した

道路のような線の上に定義する、2つの対応点を結ぶ対応線という概念を導入しました。
この対応線は、対応点から三角網を生成する際に、必ず辺として採用されるようにしました*1
なので、この対応線上の点は、正確にもう一方の地図の対応線上に変換されるようになりました。

これだけだと直線を直線にしか移せないのですが、もう一歩進んで、一方または両方が曲線だったりしても対応づけができる方法を考えてみました。

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曲線(Polyline)でも、もう一方の対応線に自動で補助対応点を挿入して三角網が作れるようにした

曲線(Polyline)の場合の問題点は、三角網の辺は当然直線しかなり得ないので、Polylineの曲がる頂点は必ず三角網の頂点、つまり対応点にせざるを得ないのですが、対応点にしようにももう一方の地図の方で対応する点が定義できないことでした。
それを、対応線の長さに対する割合に応じてもう一方の地図の対応線上にも補助対応点を定義することによって、Polylineでも三角網が定義できるようにしました。
これにより、複雑な現実の道路形状が古地図や絵地図上で抽象的に描かれているようなケースでも、道路の上を道路の上に対応づけることが可能になりました。

もちろん、いい事ばかりではありません。
Maplatには線を線に変換する以外にも、三角網でトポロジーエラー*2が発生しないようにデータを作った場合に限り、地図間の座標変換で全単射変換を保証するという特徴がありました(全単射変換については下の資料のページ28以降参照)。

www.slideshare.net

ところが、対応線を導入した場合、特に曲線の対応を導入した場合、構造の複雑さにもよりますがトポロジーエラーを発生させないようデータを制御するのが難しくなり、全単射変換を保証できるデータを作りにくくなってしまいます。
これについては、元々全単射変換を保証しないといけないような地図の種類と線から線に変換を保証しないといけないような地図の種類は異なると思うので、それほど大きな問題にはならないと思っています。

今回、この機能を使って何か実証アプリ的なもの作れないかなあと考えていたところ、最近GIS仲間周りで話が盛り上がってるバスロケーション共有仕様のGTFS周りで何かできないかなと思い、宇野バスのGTFSなどオープンデータと路線図を用いて、宇野バスの経路表示とバス運行情報表示アプリを作ってみました。

s.maplat.jp

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OSMを背景画像にしての路線表示、この複雑な路線ジオメトリが...

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路線図に切り替えると、ちゃんと路線図の線上にほぼ載ってくる

このような線を線に変換する機能、あるいは以前からの全単射を保証する機能は、Maplatの類似技術であるStrolyでは、原理的に将来にわたり絶対に実現できない機能になります。
何故ならば、StrolyもMaplatと同様、地図間の座標変換に対応点の作る三角からのベクトル変換を用いていますが、その三角の決定に、Maplatは実績あるGISの知見を取り入れて三角網を生成しているのに対し、Strolyは変換対象点の近傍の対応点3つを選び、それの作る三角形からの変換を行なっているからです。
あらかじめ生成された三角網で変換するのではなく、都度都度選択される近傍点での変換のため、Strolyはどの点をどの対応点のセットで変換するかということを意図的に制御するのが極めて困難です。
全単射変換を維持するために変換前後の地図のトポロジーを維持したり、線を線に変換するために、この道路上は必ずこの三角の辺を使って変換する、ということを定義することがほぼ不可能です。
よってこれらの機能の優位性は、未来にわたり、StrolyではキャッチアップできないMaplatの絶対優位性と見ていただいて問題ないと思います。

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Strolyは各点の変換に用いる対応点の三角を意図的に制御することができない

また、今回の宇野バスアプリは、線を線に変換する機能以外にも、いくつものMaplatの対Stroly優位性のある機能を使って実現しています。

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最新のStrolyとMaplatの長所短所比較

まず、バスの運行情報をGTFSから取ってきて地図上に表示するには、地図をUI表示なしで表示して、動作をAPIで制御する必要がありますが、そのためにはまず地図表示をiframeによる擬似埋め込みではなく、divタグによって本当にhtmlページの一部に埋め込めないといけません。
何故なら、iframe埋め込みだと、親ページからの制御を読み込まれた子ページに与えることが、セキュリティの制限によって実現できないからです。
しかし、Strolyはiframeでのページ埋め込みにしか対応できていません。

また仮にiframeでなくdivでの埋め込みに対応していたとしても、StrolyにはUI以外に、外部から制御できるAPIがありません。
そのため、何か表示内容を変えようと思うと、手作業でエディタでデータの内容を変更しなければいけなくなります。
実際、過去に「ホリエモン祭」で会場地図としてStrolyが使われた際には、担当者が常時手動でホリエモンの位置を更新していたようです。

Maplatだと、宇野バスアプリでバスの運行位置を常時更新できているように、APIでピンの表示位置や状況を変更できるので、ホリエモンの現在位置を常にサーバか何かに送りつけるシステムさえ作っておけば、あとはシステムが勝手に現在位置を更新してくれるシステムだって作れます。

また、バス路線ジオメトリを表示するために使った線を引く機能も、Strolyにはない機能です。
MaplatではAPIで地図上に線を引くことができますが、Strolyは手動、APIを問わず線は引くことができません。

このように、StrolyにあってMaplatにはないWeb上での利用が簡単なエディタ機能は確かにStrolyの大きな魅力ではあるのですが、それ以外ではもう様々な機能でStrolyはMaplatのはるか後ろを走っている状態です。
ちょうど1年くらい前にこのブログに書いた記事では、まだMaplatもいろいろ機能の不足があったため、「StrolyとMaplatは一長一短、使い分けて」と書きました。

blog.chizuburari.jp

が、その後1年を経てMaplatには数々の機能がつき、1年前にStrolyにMaplatが劣っている短所として書いた「1つの画像に複数の地図が共存可能」も既に開発済みで解消され、「StrolyがMaplatに劣っていること」は山のようにある一方で、「MaplatがStrolyに劣っていること」はもうWebエディタがあること以外にはない状態です。
クソほど劣った技術だけれど、Web上だけで簡単に導入できることに魅力を感じる一般ユーザを除いては、システムの一部や機能の一部として業務用途に使いたいユーザにとって、これからStrolyを採用する理由は微塵ほどもありません。
ぜひ、これを機にMaplatに興味を持って、使っていただければと思います。

最後になりますが、Maplatで少額募金や企業からの募金支援を受けやすくしようと、募金サイトOpenCollective

opencollective.com

でMaplatのアカウントを作ろうとしましたが、githubオープンソースプロジェクトだとスターが100以上稼げているプロジェクトでないとアカウント作成可能対象にならないようです。
現在58スターなので、あと42スター稼ぐ必要があります。
githubでアカウントお持ちの方、ぜひご協力いただければ幸いです(スター返しなどもお引き受けします)。
スターつける対象のプロジェクトは以下の通りです。

github.com

よろしくお願いいたします。

*1:このため、三角網の生成ロジックを、TIN(Triangulated irregular network)という手法から、制約付きドロネー三角網(Constrained delaunay triangulation)という手法に変更しました

*2:三角網の形成する三角同士が、もう一方の地図で重なり合ったりしてしまうこと

祝ミリシタRebellion配信! MaplatのテーマカラーはRebellion Redです

スマホ音ゲーアイドルマスター ミリオンライブ シアターデイズ(略称ミリシタ)が現在2周年キャンペーン中なんですが、その最中に通常楽曲として、ついに我那覇響の「Rebellion」が配信されました!

www.nicovideo.jp

www.nicovideo.jp

この曲は私の大好きな曲で、その歌詞の内容*1が、Strolyに裏切られてたった一人でMaplatを開発していて、何度も心折れそうになっていた時に出会って、私を勇気付けてくれた2つの曲の1つでした*2

実は、Maplatのテーマカラーである#780508の赤系カラーも、Rebellion Redという色名の色*3から採っています。
その意味で、RebellionはMaplatのテーマソング的にも私は考えています。

まあそれだけの話なのですが、嬉しかったので記事にしてみました。

[古地図こぼれ話3]毎日新聞ならまち暮らしでも取り上げられた京終天神社の歴史について

www.facebook.com 2021/7/18追加: Facebookがログインしてないと見られなくなっていたので mainichi.jp

作家の寮美千子先生の連載、毎日新聞のならまち暮らしで、奈良京終地域に鎮座する京終天神社(飛鳥神社)が話題に採り上げられました。

ja.wikipedia.org

記事中で京終天神社の社伝と歴史書に残る史実の違いについて触れられていますが、この記事の作成に、私がそれまでに調べていた情報などを提供して協力させていただきました。
本ブログで、毎日新聞側記事では字数などの問題で載らなかった詳細を補足させてもらいたいと思います。

江戸中期の書物「奈良坊目拙解」には、京終村と高畠村(現在の高畑町)で水争いがあり、百姓を殺害された高畠村が幕府に訴えて出たという血生臭い事件が記されている。このとき、京終村の人々が京都の北野天満宮に加護を祈ったところ、無罪となり、京終村が高畠村より先に取水することを許された。そのしきたりが、いまでも続いているそうだ。

これに感謝して北野天満宮が祀(まつ)る菅原道真を祀ったのが、北京終町にある「京終天神社」であるという。

享保15年(1730年)ごろ成立した奈良の地誌、「奈良坊目拙解」の「京終町」の条には上記記事引用の通りの内容が、年月等には触れないままに記載されています。
その訴訟勝利の神恩に感謝するため、天神社の祠を祀ったのが、京終の天神社の始まりだと記されています。
同じような記録は延宝6年(1678年)ごろ成立した別の奈良の地誌、「奈良名所八重桜」の「富士権現」の条にも似たような記録が残っており、同じように京終村が水論で他の村と争って幕府で訴訟になり、勝利を神に祈って勝てたためその神を勧請したという記録がありますが、八重桜ではいくつかの違いがあり、

  • 水論をして村人を殺してしまった相手の村は高畠村ではなく鹿野苑
  • 勧請したのは天神ではなく富士権現。また、新たに祠を作ったのではなく、元から伊勢、春日を祀った京終村氏神があったところに、追加で勧請した。
  • 年代は不明ではなく慶長18年(1613年)と明確

といった違いがあります。

これらの地誌は現在から比較するとはるかに近い時代の事柄を記録していますが、しかしながらどうしても同時代の一次資料ではないため完全に信じることはできませんが、同時代の一次資料的記録として、「本光国師日記」と呼ばれる金地院崇伝の日記に、慶長19年(1614年)4月20日の条として京終村水論の訴状が残されているそうです。
そのため何らかの史実に基づいているのは間違いなく、奈良坊目拙解と八重桜の記述の違いは似たような事件が2つあって京終には天神と富士権現の両方があったのか、それとも八重桜が天神を富士権現に取り違えて記録したのか*1まではわかりませんが、何れにしてもその他の地誌まで確認しても、江戸期の記録に見える京終の神社は天神または富士権現とした記録のみで、今の飛鳥神社祭神とされる事代主神を祀った記録は一切残されていません。

飛鳥神社の今に残る社伝を信じると、江戸期どころか室町の初めには、元興寺鎮守の飛鳥神社が京終に移転していたはずなのですが、その存在が京終村の記録として奈良の地誌に残っていないのはどう考えても変です。

ここから、「京終天神社」は、明治・大正期には「紅梅殿社」と呼ばれるようになった。

1889年(明治22年)の奈良絵地図 s.maplat.jp

1917年(大正6年)の奈良絵地図 s.maplat.jp

などでは、確かに紅梅殿神社と記されています。

無格社だったこの神社が宗教法人として法人格を取得したのは1953年(昭和28)。申請書に「明日香鎮座の元興寺鎮守社が、平城遷都に伴って平城京に移されたもの。古くは平城坐飛鳥天神社と呼ばれていた」という旨の社伝が記されているので、その名を掲げ、以来「飛鳥神社」と呼ぶことにしたという。

先にも書きましたがこの「明日香鎮座の元興寺鎮守社が、平城遷都に伴って平城京に移され(て、さらに室町初めに京終に移された)」という京終村の記録は、1953年の宗教法人の申請書に書かれた社伝以外には一切残っていません*2
では、京終村以外では残っているのか?というと、実は残っています。
先にも出た「奈良坊目拙解」の、「西ノ新屋町」の条には、同町内に「飛鳥神並神社」一座が鎮座している、という記録があり、元々元興寺鎮守社で、高市郡の飛鳥法興寺から遷座してきた、と記されています。
それに続けて、「近世(この飛鳥神並神社を)率川明神と号すがよくない説で、飛鳥川は率川と和語が似ているので謬って伝えたので正さなければならない」と「奈良坊目拙解」には記されていますが、これが今に残る西新屋町の率川神社です。

ja.wikipedia.org

同様の記録は、やはり江戸時代の地誌である「本朝佛法最初南都元興寺由来」や、1890年(明治23年)発行の「平城坊目遺考」などにも、やはり「飛鳥神並社、今は誤って率川神社あるいは率川阿波神社となる」という形で記されています。
京終飛鳥神社の社伝と比較して、

という点で一致しており、これに「室町初期に京終に移された」という項目を加えると、そのまま京終飛鳥神社(京終天神社)の社伝になります。
ところが実際には、飛鳥神社社伝が京終に移ったとするよりはるか後の江戸期資料でも、この元興寺鎮守社が京終に移ったという記録はなく、西新屋町の率川神社こそが飛鳥神社を名乗るべき、という記録しか残っていません。
この事は、江戸時代よりも後の後世に、西新屋町の率川神社の由緒を参考に、京終飛鳥神社の社伝が創作された可能性を強く示唆すると思われます。

それでは、飛鳥神社社伝が創作されたとして、いつ頃創作されたのでしょうか。

まず京終天神社側の状況は、「ならまち暮らし」内にも書かれ先に古地図2枚を引用したように、明治大正期は京終天神社は紅梅殿神社と呼ばれ飛鳥神社とは呼ばれていなかったので、社伝を創作する意味がありません。
西新屋町率川神社の方は、

1889年(明治22年)の奈良絵地図「率川飛鳥神社」と記されており、まだ「飛鳥神社」の名称が残っている s.maplat.jp

1917年(大正6年)の奈良絵地図、「阿波神社(率川阿波神社の略か)」となっている s.maplat.jp

となっており、率川神社=飛鳥神社であることが大正期に忘れられつつあったのではないかと推察されます。

つまり大正までは社伝を創作する目的がなかったので創作は昭和以降という事になりそうですが、ではいつ創作したのかという事になると、「社伝」などというものを登録しなければいけなくなった戦後、宗教法人として法人格を取得した1953年(昭和28年)その時ではないかと私は考えます。
宗教法人になる際に社伝、由緒を登録する必要が生じて、中世の大火で古文書が失われ伝わってきた社伝がなかった京終天神社が、忘れさられつつあった西新屋町率川神社の社伝を借りて創作したのではないか、というのが私の考えです。

社伝が100%創作物だ、という証拠はありません。
また、社伝が創作物であってもそれがどうした、寮さんもならまち暮らしで書かれているとおり、信仰の場で人々が何を心の拠り所にしているのかこそが大切だ、ということもわかります。
が、一方で私は、京終の鎮守が、そんな国家鎮護元興寺のそのまた鎮守社だった、などと言うような大仰なものでなくても、京終村を昔から水論で勝てるなどの現生利益で守ってくれた、地元密着の身近な守り神だった、それだけで十分ではないかと思うのです。
また心の拠り所だからこそ、それが正しくどのような言われがあってどういう歴史を辿ってきたのか、どう祀られてきたのか、正しく伝えられていくべきだと思うのです。
また少なくとも、伝説の領域を外れた史実を語る場では、今は社伝を元にしてしまっているため、本来は史実が語られるべきはずの奈良市史、奈良県史などでも京終天神社を「元興寺鎮守社だった」と記してしまっていますが、今後はそのようなことがないよう、史実が史実として紛れなく伝わっていくよう、情報を残していかないといけないと思うのです。

そのような思いを込めて、このブログ記事を残させていただきました。

*1:全般的に、その他の項目を見ても「八重桜」は他の地誌と比べて独特の言葉遣い、例えば他の地誌では勧修坊と記される寺を寛俊坊と記したり、勝願寺を聖願寺と記したり、と言ったものが多いので、記録間違いを疑う余地はありそうです。

*2:ただし、その新しい社伝より後に記された書物で社史を参考に書かれたもの、例えば奈良市史、奈良県史、角川日本地名大辞典などにはこの記録が採用されています。

[古地図こぼれ話2]アニメ「宇宙よりも遠い場所」の舞台に見る館林の歴史

アニメ「宇宙よりも遠い場所」(略称;よりもい)をご存知でしょうか。
女子高生世代*1の女の子4人が、友情を育て成長しながら南極を目指し、そしてまた日常へ帰っていくという青春ロードムービーです。
その人間味あふれた、完成度の高い構成が評価されて、昨年度の米ニューヨークタイムス紙ベストテレビショー特集海外部門で、日本の作品として唯一、またアニメ作品からも唯一、ベスト10に選出された等の結果も持っている、非常に評価の高い作品です。

www.animenewsnetwork.com

その「よりもい」の前半の舞台になっているのが、群馬県館林市です。
館林市が舞台に選ばれた理由は、南極という極端に寒い場所と、日本で一番暑いと言われる?場所との対比だと聞いていますが、古い城下町の独特の雰囲気が作品前半のイメージにマッチして、作品の魅力を増しています。
実際、聖地巡礼と称して、作品に登場した魅力的な場面を実際に訪れるファンの人たちも大勢います(というか、私もその一人です)。
ですが、その魅力的な街の風景は、街の歴史によって育まれてきたわけですが、どのような歴史を経てアニメ中の魅力的な街並みが生まれたのかは、あまり語られていない気がします。
本記事では館林の古地図を開きながら、「よりもい」の舞台となった場所の歴史を紐解いていきたいと思います。

記事中で引用されている古地図、およびよりもい巡礼マップに関しては、一部を除き、拙作の館林街歩き観光アプリ、「ぷらっと館林」上で公開されています。
この記事で興味を持たれた方は、ぜひそちらを用いて館林の街歩きを楽しんでみてください。

s.maplat.jp

物語の動き出す交差点 - 大辻

まずは物語中でも重要な意味を持つ場所、キマリと報瀬が南極へ行く絆を危うく壊しかけながらも持ち直し、またキマリと日向が出会うきっかけとなった2人のバイト先がある、館林本町二丁目の交差点から。
ここは多くの周辺カットが作中で描かれている他、キマリと日向2人のバイト先と特定できるコンビニが実際にある点で、巡礼でも屈指の有名スポットとなっており、巡礼のたびにこの交差点に立ち寄ってコンビニを訪れては、キマリの好きなプリンシェイクをいただく*2、というのが定番になってたりするようなところです。

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店名などは改名されているが、主人公達が歩いた作中そのままの街並みがある

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キマリ達のバイト先コンビニのある交差点の地図

実はこの交差点、館林の歴史上も重要な交差点になっています。
この交差点は竪町の大通り、谷越町の大通り(日光脇街道)という2つの大通りが交わるところで、古来「大辻」あるいは「札の辻」と呼ばれた、いわば館林城下町の一丁目一番地にあたる場所なのです。
林城大手門から出た参勤交代の行列も、ここで南へ曲がり江戸に向かうという交通の要地であった他、幕府や藩から一般民衆への御触書がある際はそれが掲げられる、高札場という設備も設置され、情報の流通もここを起点に始まるという、城下町館林の本当の中心地がここでした。
江戸時代が終わり近代に入ってもその重要性は変わらず、この場所には館林周辺の道路整備の起点となる、道路元標というものが設置されました。

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館林町道路元標

まさに、館林という街を起点とした旅がここから始まる、「ここから、ここから」の場所がこの交差点だったのです。

ちなみに、この交差点から参勤交代の行列の行く筋に沿って、谷越町の大通り(日光脇街道)を南に下がっていくと、オープニングで出てくる特徴的な雑居ビル(谷越ビル)や、日向がジュースを買ったポコポンガールズ(実際にはmenkoi girls)の自販機があったりします。

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谷越ビルとmenkoi girlsの自販機

キマリの成長を見守ってきた神社 - 金山神社

主人公キマリの家の前に描かれている小さな神社も、主人公の家というよく舞台になるところだけに、作中で多く描かれました。
家のすぐ前の神社だけに、キマリがまだ子供だった時代からその成長を見守ってきた神様だと思うのですが、このモデルになった神社が、本町二丁目の金山神社です。

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主人公の家そばにある神社のモデル、金山神社

この神社は小さな神社ながら歴史は古く、江戸時代初期の古地図にはもうその名前がこの場所に出てきます(下の古地図キャプチャは江戸時代後期)。

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江戸期の古地図にも、金山神社は描かれています

この神社の祭神は金山毘古神といい、火やそれを用いた金属加工などを司る神様です。
この地域一帯は昔は鍛冶町、あるいは近代以降は字金山と言われた地域で、その名の通り鍛冶屋が多く住んでいた地域でした。
そのため、鍛治を生業とする人々が、自分たちの職業安全のためこの神様を祀ったのだと思われます。
キマリの裏表のないまっすぐな性格は、この神様が子供の頃から鍛えた賜物なのかもしれません。

そのすぐ近くですが、5話でキマリがめぐっちゃんに「絶交無効」した後、南極の旅へと振り向かず走り去る路地があります。 小さな路地ですが、この路地も歴史は古く、江戸時代には与力や同心が集まり住んだ「御家中屋敷」と記されている地域になっていますが、その区画の中に一本、通用路として切られた路地(当時は行き止まりでした)が、このキマリの走った路地のようです。

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キマリが旅に出る前走り去った路地は、御家中屋敷の通用路だった

キマリ宅近くの街の風景 - 片町

5話ではキマリとめぐっちゃんにフォーカスが当てられて語られますが、その中でキマリ宅周辺の風景が描かれます。
水商売の店が多数雑居する特徴的なゴリラビル、エンディングアニメでも描かれる角のタバコ屋さん、etc...

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キマリ宅周辺 - 片町の風景

この辺りの街は、歴史的には片町と呼ばれます。
町名の由来は簡単、ここらあたりは館林城の城内と城下町の境目であり、昔はこの通りの東側は城内を守る堀と城壁の威容があるばかりで、人家や店の類は通りの片側、西側にしかなかったため、片町と呼ばれるようになったのでした。

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城壁に面していたため、通りの片側にしか街がなかった片町

さすがに堀が埋められ城壁が撤去された今は、片側にしか建物がないということはありませんが、それでも建物密度は西側の方が詰まってるような気がしないでもありません。

同様に5話の中でキマリとめぐっちゃんの帰り道シーンで描かれた場所として、片町の通りの少し東側の水路があります。

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片町東すぐの水路、作中ではこの水路から道路を見上げるような視点だった

この水路はまさに、片町が境だった館林城の城内と城下町を隔てていた堀の遺構です。

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キマリとめぐっちゃん帰り道の水路は館林城の堀の遺構

花屋さん前の「止まれ」 - 谷越町天王の裏通り

オープニングと、同じく5話で少し描かれる特徴的な場所として、花屋さんの前に「止まれ」と描かれた細い路地の風景があります。

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花屋さん前に「止まれ」と描かれた路地

この路地も決して大きな道ではありませんが、昔からある古い路地です。
今も残る歴史ある施設として、この路地の東には青梅天満宮、西には大道寺があり、その双方にこの路地から裏口アクセスできますが、その昔にはもう一つ、路地の東側、青梅天満宮の北側に、円蔵院というお寺がありました。

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路地の東に円蔵院が見え、その中に「天王」と描かれている

この円蔵院には牛頭天王が祀られ、谷越町の天王として知られていましたが、その他に館林には足利町の天王(別当同町密蔵院)、竪町の天王(別当材木町法性院)があり、この三天王が旧暦六月七日に催す夏祭りは、三つの神輿が市内渡御の後登城して城主拝礼まで行われるという、盛大なものだったようです。
今は三天王も他の神社に合祀され、天王夏祭りもなくなって静かな路地になっていますが、その昔は夏祭りの際は賑わった通りだったのかもしれません。

館林の街の玄関 - 昭和まであった街のランドマーク、善導寺

これまでに挙げた例のようにピンポイントではないのですが、館林という街の玄関口である館林駅周辺も、作中では多く描かれました。
キマリが旅立つ際に利用した駅前トイレや駅改札口、駅前のタヌキ像、めぐっちゃん行きつけの喫茶店カフェドスタール、少し離れていますが結月が泊まった?ニューミヤコホテル*3など。
これらの地域は、その昔どのようなところだったかというと...全域が善導寺という大きなお寺の境内でした。

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今の館林駅前一帯は、全て昔は善導寺境内

善導寺は江戸時代より前は館林城の北側、加法師と呼ばれる地名の地域に、伝説では行基が開基したとされて存在していましたが、安土桃山の頃榊原康政が館林に入城した際に、善導寺の上人に深く帰依し、この現館林駅前付近に土地を与えて移転させたそうです。
それ以来江戸期を通じてこの場所にあり、近代に入ってからも寺域こそ大幅に小さくなりましたが、ずっと館林駅前にランドマークとして鎮座していた名刹でした。
が、昭和末期、館林駅前の再開発計画に伴い、城沼の北側に移転してしまいました。
その後館林駅前は再開発されたと言っても、誘致したスーパーも撤退しだだっ広い駐車場しか残っていないのを見ると、再開発とはなんだったのか、善導寺の山門の威容を館林駅前のランドマーク、街のシンボルとして駅前に残しておくべきだったんじゃないかと、余所者ながら思ってしまいます。
もし善導寺館林駅前に残っている世界線で「よりもい」が作られていたら、館林駅前の描写ももっと違ったものだったのかもしれません。

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左は城沼北側の現善導寺にある榊原康政の墓、右は館林駅前にある墓が元あった場所の記念碑

番外編: 東屋の江戸時代

このように、アニメの聖地として訪れた街並みであっても、それを歴史などの別の視点を重ね合わせてみてやると、また全く違う景色が見えてきます。
とっかかりはアニメであったとしても、そこから街を他の視点で見たりして楽しむ楽しみ方がもっと普及すればいいなと思います。

最後に、番外編として、「よりもい」の館林聖地として筆頭に挙げられるであろう、つつじが岡公園の東屋が昔はどうだったか。

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作中を代表する聖地である、つつじが岡公園の東屋

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つつじが岡公園は城沼の底

古地図の範囲外...というか城沼の底でした。
昔の城沼は今よりもずっと広く、館林城の難攻不落の南の守りとして広がっていたのです。

*1:本編を見ればわかりますが、世代は一緒だけど女子高生じゃない娘も含まれますので、「女子高生」ではなく「女子高生世代」と表現しました。

*2:最近置いてないんだよな...

*3:結月が泊まったホテルは、周辺風景と玄関はニューミヤコホテルがモデルなのですが、外観内装は館林グランドホテルがモデルのため、?と書いています

Maplat採用のambula mapアプリが京大散策地図に対応&アニメ「PEACE MAKER 鐵」とスタンプラリーコラボ

私開発の古地図アプリオープンソースライブラリMaplatを実際に採用してくれている、株式会社コギトさんのambula mapが、新しい地図に対応いたしました。

一つ目は、京大の散策地図への対応のプレスリリースです。

k-tai.watch.impress.co.jp

二つ目は、アニメ「PEACE MAKER 鐵」とスタンプラリーコラボを行う案内です。

travel.watch.impress.co.jp

Maplat同様、ambula mapへの応援もよろしくお願い致します。

[古地図こぼれ話1]重要文化財、奈良称名寺薬師如来像の来歴をつきとめたかもしれない話

近鉄奈良駅から北西にいったあたりに、称名寺というお寺があります。

ja.wikipedia.org

茶人として知られる村田珠光が出家していた寺としても知られる同寺ですが、かつて同寺の山門外西側に薬師堂があり、そこに薬師如来立像が納められていました。
今は国の重要文化財となり、奈良国立博物館に寄託されている仏像です。

imagedb.narahaku.go.jp

上記には写真は含まれていませんが、写真は称名寺さんのWebページ内のこちらで確認することができます。

今回の記事は、この薬師如来像の来歴をつきとめたかもしれない、という話です。
知人の歴史研究者への確認や、奈良県立図書情報館のリファレンスなどを使って同様の説が過去にあったか確認してみましたが、調べられた範囲内では見つけられていないので、もし見つかっていない論文等がない限りは新説、ということになります。
本来は歴史学会などに論文として出すべきなのかもしれませんが、私は歴史の学会にも属していないし、論文の書き方もわからないのでまずブログ記事としてみました。
専門家の方、どう扱うべきかアドバイスなどいただけましたら大変嬉しく思います。

まず結論としては、

  • 称名寺薬師如来は、江戸中期まで奈良市高畑町字本薬師の、現在奈良教育大学構内の本薬師と呼ばれた薬師堂に安置されており、それが江戸時代の間に興福寺塔頭の勧修坊、奥芝町の奥芝辻薬師堂への移動を経て称名寺に伝わった可能性が非常に高い
  • 本薬師と呼ばれた薬師堂に安置された薬師如来には、江戸時代の時点で、源頼朝から南都の僧に与えられたもの、という伝説が伝わっていた。同時代史料がないのでこの真偽はわからないが、称名寺薬師如来の学術的な年代推定も鎌倉時代であり、非常に近い

というものになります。
なぜそのような結論となったのか、経緯をこれよりお伝えします。

はじまりは古地図の上の「なんだこれ?」

はじまりは、古地図の上で「なんだこれ?」というような記述を見つけたことでした。

s.maplat.jp

上記のリンクの場所ですが、この周辺、私が奈良に住んでいた頃に居住していた場所でした。
古地図上には、変体仮名混じりで「きかいが嶋」と書かれているのですが、周辺の「かがみ明神」「きびづか」「かげ清地蔵」などは現在にも残っているものの、この「きかいが嶋」にあたるものは全く残っていません。
「きかいが嶋」のそばには「奥芝辻にひける」といった但し書きが書かれていますが、これの意味もさっぱりわかりません。
そこで興味を持って、奈良の地誌などを紐解いてこれの正体を調べ始めたのです。

高畑鬼界ヶ島には本薬師と呼ばれる薬師堂があり、頼朝から下賜されたとの伝説がある薬師如来十二神将像があった

その調査結果は、実はもうWikipediaにまとめてあります。

ja.wikipedia.org

上記のWikipediaは、私が書いたものですが、Wikipediaでは自分の研究は書けないため、飽くまで奈良の地誌などに残っている記述を引用する形で、断定せず複数解釈が存在する場合は両論併記的に書いております。
が、このブログは私のメディアですので、もう少し断定調に近い形で書こうというのがこの記事の目的でもあります。

いずれにしましても、江戸期の奈良の地誌、『奈良坊目拙解*1』、『南都年中行事*2』、『平城坊目考*3』などによると、この現在は『奈良市高畑町字本薬師』と呼ばれる地域に、『鬼界ヶ島』と呼ばれる一角があったというのは間違い無いようです。
鬼界ヶ島と呼ばれるようになった理由については、伝説としてこの地に俊寛が隠れ住んだとの伝説があったためと思われますが、薬師如来の来歴とはさほど関係がないので詳細は省きます(興味があればWikipediaを見てみてください)。
重要なのはそれらの地誌を見ますと、この鬼界ヶ島の地に、『本薬師』という薬師如来十二神将を祀った薬師堂があったという記録が残っていることです。
この『鬼界ヶ島本薬師の薬師如来』が、経緯は順次後述しますが『称名寺重要文化財薬師如来』に一致する可能性が高いのです。
またその薬師如来の来歴に対して、『奈良坊目拙解』『平城坊目考』等の地誌では、源頼朝勧修坊周防得業という奈良の僧侶に賜った薬師如来であるという言い伝えが記載されています。
この勧修坊周防得業というお坊さん、頼朝に追われていた義経を奈良で一時匿ったものの、それを咎められて頼朝に鎌倉へ呼び出されますが、逆に頼朝の非道を論理立てて諭して頼朝に感心され、鎌倉で勝長寿院というお寺を任されたという逸話のある方です。
のちに奈良に戻ってくるのですが、それほど頼朝に感服されたお坊さんですから、戻るにあたり餞に仏像など賜っても不思議ではありません(残念ながら同時代史は残されていないようですが)。
奈良の地誌の記録は江戸時代の記録であり、頼朝の同時代史ではないので信憑性については疑問が残りますが、重要文化財となっている薬師如来像の推定作成年代が鎌倉時代であり非常に近いので、簡単に眉唾とも言ってしまえない状況です。

鬼界ヶ島本薬師の廃亡に伴い、一時興福寺塔頭の勧修坊へ

その後、鬼界ヶ島本薬師の薬師堂の廃亡に伴い、薬師如来像は一時興福寺塔頭の勧修坊に移され、その後奥芝町の奥芝辻薬師堂に移送されます。
最初の古地図に「奥芝辻にひける」と書かれていたのは、この事をあらわしていたようです。
この鬼界ヶ島本薬師の廃亡、勧修坊への移動および奥芝辻薬師堂への移動はどの地誌でもほぼ一つの出来事的に書かれているので、ほぼ同時期に起こったことなのか、勧修坊にもそれなりに長期間いた後に奥芝辻に移動したのかはよくわかりません。
時期についての記述も、地誌によって寛永年間(1624〜1645)と書いているものもあれば万治年間(1658〜1661)と書いているものもありはっきりしません。
寛永に鬼界ヶ島本薬師から勧修坊への移動、万治に勧修坊から奥芝辻への移動が起きていたのかもしれません。

この勧修坊という塔頭、古地図上では

s.maplat.jp

こちらにあたりますが、今でいうと荒池(当時はありませんでしたが)のほとり、高畑天神社)の裏あたりに当たる地域です。
この勧修坊への移動は、鬼界ヶ島本薬師が元々興福寺勧修坊の管理下にあったことが原因と思われます。
元々本薬師の薬師如来自体が、勧修坊周防得業に与えられたという伝説があるものですから、その管理が得業の住坊であったと思われる勧修坊になるのも不思議ではありません。

この勧修坊という塔頭は、義経とも所縁が深い勧修坊周防得業の住坊だけあって、義経が一時潜伏したという言い伝えもあり、義経が出立する際に鎧の籠手を残していったのが伝わっていたという記録があります。
その籠手は今は春日神社に移って現在も伝わっており、国宝になっています。

bunka.nii.ac.jp

勧修坊についても、いつかWikipediaに書いてみたいと思っております。

勧修坊から奥芝辻薬師堂へ、ケチな坊主のために失われる十二神将

さて、先に書いた通り、薬師如来像はしばらく勧修坊にいた後、奥芝辻薬師堂へと再度移送されます。
奥芝辻薬師堂はこちら。

s.maplat.jp

『奈良坊目拙解』『平城坊目考』等の地誌から見ても、鬼界ヶ島本薬師から勧修坊への移動は少し前時代史に当たるかもしれませんが、勧修坊から奥芝辻への移動はほぼ同時代史だったようで、街の古老の話として、勧修坊から奥芝辻まで車を曳いて移動する際に、街の人に結縁のためと称して車を曳かせていた、といった聞き取り記録が残されています。
またこの時、残念な出来事が起きてしまいました。
『本薬師』の薬師如来は最初に作られた際から十二神将像がセットであり、鬼界ヶ島本薬師から勧修坊までその1セットは漏れなく移されていたようなのですが、奥芝辻への移送にあたり、勧修坊の僧侶が移送費をケチったために、薬師如来のみが奥芝辻に送られ、十二神将は勧修坊にとどめおかれました。
その結果、十二神将はその後行方知れずになってしまいました。
薬師如来と一緒に奥芝辻に送られていれば、十二神将像もあわせて現代に伝わっていたかも知れず、とても残念です。

奥芝辻薬師堂も廃亡するにおよび、いよいよ薬師如来像は称名寺、そして奈良国立博物館

これまで主に参考にしてきた地誌は『奈良坊目拙解』『南都年中行事』『平城坊目考』等になりますが、奥芝辻薬師堂への移動以降は江戸時代も後期の様相になりますので、次の時代の地誌である『平城坊目遺考*4』を参考にすることになります。
奥芝辻に移ってしばらくは周辺の信仰を集めた奥芝辻薬師堂と『本薬師』薬師如来像ですが、廃亡の時期ははっきりとはわからないものの、廃亡するに及んでこの薬師如来像は、近くの菖蒲池町称名寺、山門の傍に移設されたとの記録が『平城坊目遺考』に残っています。
また、これまでの地誌では残されていなかったのですが、『平城坊目遺考』で初めて、『本薬師』薬師如来像の高さが五尺(1m50〜60cm)という記録が残されますが、このサイズは称名寺重要文化財薬師如来像の高さ(164.5cm)とほぼ一致します。

そして、後に称名寺薬師如来像は重要文化財指定され、奈良国立博物館へ寄託されるわけですが、この時の話について称名寺の住職さんにメールインタビューしたところ、

重要文化財薬師如来が収められていた)薬師堂は、現存いたしませんが、山門外の西側に有ったと伝えられております。

との話をいただいており、これも『平城坊目遺考』の「菖蒲池町称名寺、山門の傍に移設された」という記述と合致します。

このような地誌の記述を追っていった結果と、そしてところどころでの記されている事象の合致

があることより、私としては、記事最初に示した事項、再掲しますと

  • 称名寺薬師如来は、江戸中期まで奈良市高畑町字本薬師の、現在奈良教育大学構内の本薬師と呼ばれた薬師堂に安置されており、それが江戸時代の間に興福寺塔頭の勧修坊、奥芝町の奥芝辻薬師堂への移動を経て称名寺に伝わった可能性が非常に高い
  • 本薬師と呼ばれた薬師堂に安置された薬師如来には、江戸時代の時点で、源頼朝から南都の僧に与えられたもの、という伝説が伝わっていた。同時代史料がないのでこの真偽はわからないが、称名寺薬師如来の学術的な年代推定も鎌倉時代であり、非常に近い

ということが成り立つ可能性が高いと考えています。

*1:村井古道著、享保20年(1735)発行、私の調査は喜多野徳俊訳註の1977年綜芸舎発行本に基づく

*2:村井古道著、元文5年(1740)脱稿、私の調査は喜多野徳俊訳註の1979年綜芸舎発行本に基づく

*3:久世宵瑞著、寛政7年(1795)成立、私の調査は金沢昇平校正の1890年阪田購文堂発行本に基づく

*4:金沢昇平著、1890年、阪田購文堂発行

自動運転では、Googleのスピード感だけでなく自動車会社のスピード感も考える必要がある

先の記事

blog.chizuburari.jp

につけていただいたブクマコメントで、いくつか唸らせられたのにお答えしたいと思います。

ZENRINを廃した新Google Mapsは自動運転とは基本的に関係がない - ちずぶらりHackers

プローブによって生成した地図の精度は低いかもしれないけど、RTKのような高精度な測位システムが出てきたら解析能力を持っているGoogleにあっという間に抜かれてしまう。確かにコケたGoogleサービスは多いけど、要警戒。

2019/03/25 07:57
b.hatena.ne.jp

これに関しては完全におっしゃる通りで、今の携帯電話などのプローブ位置情報精度がいくら積み重なっても自動運転可能な精度にはなりませんが、プローブの位置情報側に革新があり、多くの携帯がRTK対応なんて事になってくると話は違ってきます。
そんな自体が何年後、十何年後に来るのかわかりませんが、そんな自体になれば、特に自動運転向けに作ったわけではない基盤が「結果的に」自動運転にも使えるようになる可能性もゼロではありません。
そこまでは否定していないつもりです。

また、RTKが世の中にあふれる「かもしれない」十何年後かを見据えて、Googleが最初から自動運転にも使えるような仕掛けをプローブ生成地図の中に埋め込んでいる可能性も、これまた「ゼロではありません」。
その意味では、ブコメで誰かがおっしゃっていた、「Googleの中の人でもないのに何がわかるのだ」という指摘はごもっともです。
私が論証したのは今新Google Mapsが使っている技術が、今のトレンドの自動運転技術にはリンクしないということであって、Googleが「今は実現不可能でも、十何年後にはできるかもしれない、まだ『誰も知らない自動運転の仕組み』の秘密の種を新Google Mapsの中に撒いている」可能性については、Googleの中の人でもなければ「撒いている」とも「撒いていない」とも断言できません。

ZENRINを廃した新Google Mapsは自動運転とは基本的に関係がない - ちずぶらりHackers

かつて 3D ゲームにおいてコリジョンマップと景観モデルは別だった。しかし今やハードとゲームエンジンの性能向上によって景観モデルはコリジョンを兼ねるようになった。Google もそういう方向に未来を考えてるのかもね

2019/03/25 09:22
b.hatena.ne.jp

これは喩え方が面白いなと思って唸らされましたが、確かに今の技術の限界(ネットワーク速度やストレージ容量の限界等)では、ナビ、表示用の地図と自動運転用の地図は分けて作成されるのが合理的ですが、将来通信が5Gだ6Gだとなり、ストレージにも革新が起きて状況が変わってくれば、表示用の地図と自動運転用の地図が共通になる未来も考えられないわけではないと思います。
そしてこれも同様、Googleが十何年後のネットワーク環境等を見据えて、将来の新型自動運転技術の種を新Google Mapsの中に撒いている可能性は、中の人以外の誰にも、否定も肯定もできません。

が、それでも、100%の否定はできませんが、私は「新Google Mapsに将来の自動運転につながると現時点でGoogleが考えている技術要素は入っていない」蓋然性が高いと思っています。
それは、自動運転を実現するには、Googleだけで完結する話ではなく、Googleと組んでいる自動車会社のスピード感も絡んでくるからです。

皆さんは、5年後の未来って想像できますでしょうか。
今年大学に入学した子が既に就職しており、明日発表される新元号ももはや5年目になって目新しくなくなっていて、東京オリンピックももう終わってむしろ次の話題は大阪万博になっているような未来です。
はるか先に思えますが、自動車会社の人々にとっては「5年後」は「現在」です。
新しい自動車モデルが発売されるとなると、その自動車に搭載される「ナビ」等の部品は、5年前には企画がスタートし、4〜3年前には使う技術が決定しインタフェースなどの詳細を2年程度かけて詰め、2〜1年前に実装に入りいくつかのプロトタイプで実走テストを繰り返し、実際に発売された後は10年程度は継続して動作することを保証する事が必要とされます。
つまり、自動車会社にとっては、製品に使われる技術は5年後に発売されるモデルの技術であっても、現時点できちんと動作する事が保証されており、かつ15年先にも動作する事が保証されている技術である必要があるのです。

Googleはインターネットの企業で、開発サイクルなどに囚われずいつでも最新で最高の技術をパッと市場に投入し、必要なくなればパッとなくしてしまう身軽な会社ですので、みなさんGoogleの自動運転と聞いてもそのようなイメージを持ってしまっているかもしれません。
が、Googleはもう早くに自動車筐体まで自分たちで準備する形での自動運転参画は放棄していますので、自動運転に参画するには協業している自動車会社の開発サイクルも考慮しなければなりません。
たとえ自動運転機能が搭載される新車の発売が5年後だとしても、その実現に必要な機能の原理は、今この時点で確立して、自動車会社とこの技術でいく、ということが握れていないといけないのです。
「何時になるかもわからない」携帯にRTKが広まったら、5G6G通信が広まったら、動作するようになる「かもしれない」最新の自動運転技術、では自動車会社とは握れません。
インターネット上のGoogleの自社サービスのように、目処がついた、技術が完成した!すぐ投入しろ!というわけにはいかないのです。

ということなので、少なくともここ5年程度の自動運転実用化でGoogleがプレゼンスを持とうと思うと、「何時になるかわからないけれど、高性能なのができるかもしれないね」技術を追っていては完全に足がかりを失うので、Googleといえども今実現できる事、ナビ表示用地図とは別に自動運転用高精細地図を準備する形で参画するしかあり得ないと思っています。
そして、Googleといえども同種のプロジェクトをいくつも並行して走らせる余力はないと思われますので、高精細地図による自動運転技術の開発と、RTKや5G6G通信が広まって以降の全く新しい自動運転技術の開発を2列走らせるということはしないのではないかと思います。

なので、結論としては、新Google Mapsで使われているプローブ地図作成等の技術が、携帯にRTKが広まったら、5G6G通信が広まったら、というような十何年か先の?将来の変化に応じて自動運転にも絡んでくる技術になる可能性は否定できません。
しかし、今のGoogleがそこまで見込んで種を撒いている蓋然性は低い、というのが私の考えです。

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