Code for History

"Code for History"はIT技術を歴史学上の問題の解決に使うコミュニティです。強調したいのは、我々にとってIT技術は「手段」であって「目的」ではありません。「目的」は歴史学上の問題を解決する事であって、必要であればITでない手段も活用します。常に最優先なのは、問題を解決することです。

祖父作詞の流行歌の動画がネットに上がっていた

祖父作詞の1936年の流行歌の動画がネットに上がってるのを発見した。

www.youtube.com

先日、奈良のうとうとさんの詩の朗読会に参加して、自分の下手くそな学生時代の詩をネットから掘り起こすか、祖父の詩をネットから掘り起こすかで悩んで、結局祖父の詩は掘り起こせなかったので自分の詩を詠んだんだけど、代わりにこの動画を発見することができた。

サーバレス技術のみで古地図関連技術を何とかしたい

今の仕事に移って本業で技術に触れられなくなって、また余暇でMaplat開発が進んできたりして起きた心境の変化に、サーバ技術が大嫌いになったというのがある。
昔はサーバサイド技術者だったのが、今はとにかくサーバサイドをなくしたい。

バックエンド処理が必要だとしても、とにかくサーバを立てたくない。サーバレスアーキテクチャで済ませたい。
もともとStrolyやってた時も、少ない人数でお守りするものを減らすために、基本S3だけで完結するようなシステム設計してきたので、そういう方向性あったんだけど、今は拍車がかかってる。

ずっと本業でお守りできる状況ならサーバの面倒見てあげるのも悪くないが、たまにしか面倒見てあげられない状況で、ずっと起動しっぱなしで課金もずっとされて、ずっと状態監視して、不調起こしたら即座に対応してあげないといけなくて、なんてシステムを動かすのはコストがあまりにも高すぎる。
たとえ起動時遅延や過剰コストが多少あったとしても、サーバレスアーキテクチャで関われる時だけ関わるだけでよいシステムの方が絶対安上がりなはず。
古地図タイル化もサーバレスアーキテクチャでやれる目処ついたし、たくさんの古地図を集めてアーカイブ化するシステムも、サーバレスアーキテクチャでかつ分散処理でやれる腹案があるので、(FOSS4G TOKYO 2017 懇親会ライトニングトークで話します)Maplatは徹底してサーバレスな仕組みでStrolyに対抗していく所存。

古地図で街を歩かせることについての、インバウンドがらみでの一考察

古地図全般を美術品的に愛でる意味ではなく、飽くまで古地図で町歩きをするという視点だけで考えて、海外の人に日本の古地図町歩きは刺さらないのではないだろうか。

というのは、我々極東の住人としては、リンガフランカと言える英語の文字アルファベットも知っているし、世界史の舞台も知っているので、欧米の古地図でも楽しめるし、同程度に海外の人も日本の地図を楽しめると勘違いしがちだが、
海外の人は世界言語でない日本の文字など知らないし(ましてやくずし字!)、日本の歴史などそれほど知識として持っていない。

我々がたとえば会津の古地図で町歩きして、おお、ここが西郷頼母の屋敷跡、ここが田中土佐の、佐川官兵衛のと楽しめても、海外の人たちはそんな名前は読めないし、そもそもそんな人たちを知らない。
そういうコンテキストが読み取れない状況では、古地図は単に見にくい不正確な地図でしかない。
だから、海外の人々にも刺さるようにするには、古地図で町歩きさせるだけでは不十分で、その上に乗せるコンテンツも相当に洗練させないといけない。

逆に言うと、それを洗練させる余力がない間は、あるいは国外コンテンツも充実させる余力がない間は、無理して世界に出ようとせず、とりあえず国内に注力だけしていれば良いのではないか。
また、古地図の美しさを維持するために何も加えない事にこだわるよりも、積極的に注記に訳やコメントを加えていく姿勢の方がいいのかもしれない。

違う、リベラルがダメになったんじゃない、「普通の人」「賢しげな人」がダメになったのだ。

トランプは、環境に関する科学的研究に、科学的に反論するのではなく、成果発表やファクトチェックを禁止するという。
https://twitter.com/KeikoUTorii/status/823996702017327104
トランプの大統領令のために、アメリカのイラン人大学生はフィールドワークから帰れなくなったという。
https://twitter.com/kazukazu881/status/825403060826550274
トランプの大統領令のために、ダルビッシュ父親は息子に会いに行けなくなる可能性もあるという。
https://twitter.com/atmicksan/status/825551605009248258

まだ今の所、軍隊で反対派を鎮圧といった状態ではなく、単にペンでサインしただけなので、その意味で平和裡なことしか行っていない?いないが、これが最上級の暴力、不正義でなくてなんなのか。

トランプ政権が明らかになった時、ちょっと頭良さげにすかしてる連中で、下手な正義感を振りかざしてない分、後から見れば割とマシな大統領になるんじゃないの、とか抜かしてる連中が何人かいた。
トランプに抵抗するアメリカのリベラルの連中が、一部、もちろんあってはならないことではあるが、放火だの暴力的行為に走ったことについて、非暴力を叫ぶものほど暴力的だよね、とどっちもどっちで相対化し、切断処理を行った「普通」の人たちもたくさんいた。
そして、そういった人たちが、返す刀で「リベラルはダメになった」とかのたまう。
違う、リベラルがダメになったんじゃない、「普通の人」「賢しげな人」がダメになったのだ。

正義には多様性がある、正義は暴走することもある、そんなのは当たり前の事で、正義を語るならそれを毎日自省しないといけないのは当たり前の事。
だが、いつから大人になるということが、正義を疑いつつ悩みつつも、自らのそれを選び取る事ではなく、いずれの正義も選び取る事なく、どっちもどっちと距離をおいて、価値判断を行わずにニヒルに振る舞うことになったのか。
社会の実像がどうだろうが、せめて理念だけでも理想や綺麗事を提示できるのが大人じゃないのか。
そりゃいい歳した大人が、成年したばかりの青二歳よろしくしょせん世の中なんてそんなもんと開き直って、どっちもどっちとか言って我関せず決め込んでたら、子供達だって「いじめられる子にも悪いところあるわ、どっちもどっち」とか言い出すわ。

どっちもどっちというなら、思うなら、どっちもどっちだから我関せず、じゃなくて、どっちも怒ったらええねん。
どっちにも怒って、両方を見つめてたら、対等な人々のゆるいつながりで、末端の人の一部の暴走を必ずしも止める力も権限もない状況での一部の暴力と、一つの指揮系統に従った確固たる動きで、末端の構成員が自分の行動に疑問を感じてもそれに抗うこともできない状況で行われる暴力の、どちらにより力を入れて声をあげていかないといけないか、小学生にだってわかってくるだろう。

俺はこんな事言うてもヘタレなので、社会に影響を与えるレベルで声を上げることはできないし、しょせん社会活動への募金額よりもソシャゲへの課金の方が桁が大きいアホやけども、俺のできる範囲の事では黙るつもりはない。
自分の私的な事でも、大人気ないといわれようが、前々社の不当な扱いとか、ほとんどの人が味方になってくれなくても自分一人でひたすら抗議続けてるような人間なので、別に子供じみてると言われようが、何を言われようが必要な声はあげるし他の人が挙げてたら支持する。
不当なことに口をつぐむのが大人じゃなく、不当なことを不当と綺麗事を言うのが大人だと思うので。

モルちゃんが死んだ

もう10日前(1月20日)の出来事ではあるけど、家族になって7周年を1週間後に控えて、ペットのモルモット、モルちゃんが死んだ。
もういつ死んでもおかしくないくらいの高齢だったが、2週間ほど前からふらつき、痙攣するようになり、医者に連れて行くと腎臓結石だったらしい。
腎臓の機能がほぼほぼ失われているような状況で、結石が痛いのか声にならない声で喘ぎながら亡くなっていった。
死んだ後、左目に一粒涙があふれていた。

悲しいが、単身赴任で離れている家族の状態で、帰ってきてる時にみんなで見守りながらなくなったのは奇跡に近い。
帰ってくるのを待ってくれていたのだなあと思えた。

台湾生まれで小柄な女の子、家族に来て1年ほどで1度猫に襲われ首を噛まれ、血まみれになって医者からもこれは無理でしょうねと言われていたところを、右後ろ足に麻痺は残ったものの元気に復活し、ほぼ天寿といえるくらいまで生きてくれた。
本当によく頑張ってくれたと思う。
ゆっくり休んでください。

「世界でひとつだけのHacker」との難波の夜の思い出

大阪で働いていた前職では、無料WiFiルータ基盤整備事業に取り組んでいた。 初代ルータは既製品のファームウェア書き換えで対応していたものの、2代目ルータ候補はオリジナル製品を準備しようということで、前職取締役がアジアのハード会社に発注して早々に3万ハードを確保。

ところが、既に3万ハード作って納入もされてしまってるそのハードが、とても特殊なMIPSアーキテクチャで、まともにファームウェアコンパイルできるビルドチェーンが作れない。 チップメーカーが用意した?DD-WRTだったかな?のバニラは一応あったので、OpenWRTで初代向けに作ったファーム、サーバからのファーム自動更新機能なんかも作り込んだその成果を捨てて、そのハード専用のファームをバニラから1から作れば対応できんことはなかった。

けど、ファームからサーバサイド、フロントコーディング、技術者仕事じゃない整備戦略立案まで、サポートとデザイン以外の仕事は実質私一人で対応してたので、そんなん作る予算もマンパワーもない。 また仮にできたとしても、初代と2代目が別管理のソースコードになるので、まともに今後の機能アップなどが考えられなくなる。 なんとか初代向けファームを2代目でもコンパイルできる環境を探してると、唯一、世界でただ一人そのアーキテクチャ向けにオープンソースでビルドツール公開してるラトビア人がいた*1。 あちらも趣味程度で進めているっぽくドキュメントも不十分な中、それをベースにコンパイル進めてたんだけど、もう実際不可能で、その人に直接仕事として出した方が早いんじゃないかという感じになった。

連絡取ろうとその人のgithubチェックしたら、何故か所在地が「日本、鳥取」になってる。 えええ?と思ってコンタクトしたら、1年ほどの休みを取って兵庫香住*2の禅寺で禅修行してると。 しかも、1ヶ月後くらいに難波に行くので、そこでなら会えるというので、詳しく聞くと、もう修行終わったので関空から帰るので、その前夜なら会えると。 そんなこんなで、地球の裏側の、世界で唯一その時やってた仕事をこなせる人と直接出会って、難波でどんちゃん騒ぎの夜を経験しました。 一蘭のラーメンやら、串カツだるまやら、たこ焼きやら、(会社として仕事を頼む可能性があったので)会社の金で食べさせまくって、これが日本大阪の食いだおれ文化なんですよHAHAHA、と盛り上がりました。

結局、せっかくそんな人材を見つけたにもかかわらず、会社側判断で、3万件ものハードを無駄にしたまま事業をシュリンクする方向になってしまったので、結局その人に仕事を頼むことは実現しませんでしたけど。 とても残念。 もっとも、その後ごたごたあって会社自体がそんな事業やってるどころではなくなったので、まあ結果的に仕方ないっちゃあ仕方なかったのかもですが。

ここまでの偶然で時間軸もぴったりあって、直接会って、みたいになったのは珍しいけど、私は本当にいろんなことに対してあきらめが悪く、地球ひっくり返してでも解決策を見つけてやる、的なところまで突っ込むので、地球の裏側から解決策見つけたみたいな経験は割としょっちゅう。

*1:今見ると、何故かgithubは削除されていた。本人のサイトはまだ残っていた。

*2:なぜ鳥取だったかは不明

韓国のハルモニが死んだ。

韓国のハルモニが死んだ。死因は胃がん、享年96歳という。

ハルモニといっても、私は日本人だし血の繋がりがあるわけではない。 家内の友人として、独身中に家内と10年、結婚後は私家族と15年、付き合った。

始まりは家内が大学生だった頃、韓国語を覚えたてでソウルに旅行に行った時のことだったという。 家内がソウルの一等地、三一独立運動の発祥地としても有名なタプコル公園に遊びに行った際、老人男性にナンパ(笑)され、連れていかれたのがハルモニの経営する囲碁会所「老人亭」だった。 老人亭はタプコル公園東隣の低い雑居ビル並びの1つの、最上階にあり、ハルモニはそれを明るく精力的に切り盛りしていた。 いつもご老人たちが集まり、囲碁の対戦をしたり語らったりしていたが、そんな客の一人が気まぐれに連れてきた日本人の若い娘を、ハルモニは暖かく迎えてくれた。 以後、家内がソウルに行くたびに、ハルモニのところに寄るようになり、そんな家内をハルモニはいつも暖かく迎え、食事や、時には宿も提供してくれたという。

家内と私が付き合うようになって以降は、私もハルモニと付き合うようになった。 結婚前、家内と私は同じ韓国太鼓のインディーズバンドに所属していたが、その合宿?でソウルに行った際も、老人亭を皆で訪ね、たくさんのキムバプと参鶏湯をいただいた。 ハルモニは戦中世代らしく、若干の日本語が片言で話せた。ハルモニが以前は日韓の囲碁友好団体の役職を持っていたらしい事も関係あるのかもしれない。 誰かから聞いたハルモニは若い頃宝塚の女学校に通っていた宝塚歌劇の卵だったという話を私は長らく信じていたが、家内曰くそれはありえなくて、ハルモニは韓国から出たことはなかったようだ。 多分、最初は老人亭に来ていたご老人の一人がふざけて言った話だったんだと思う。

家内と結婚し、息子が生まれる頃には、ハルモニは老人亭を畳み、ソウル南郊光明市の光明サゴリ駅近くの団地に住むようになった。 息子の手を引いてもらって本当の祖母孫のようにソウル動物園を一緒に回ったり、団地近所の市場を一緒に散歩して、息子に文房具を買ってもらったりした。 団地にも何度か泊めさせもらったが、まだ赤ん坊だった息子が気に入って、もらって帰った大きなハムスターのぬいぐるみは、今の奈良の家に残っている。 この頃のハルモニは、離婚してハルモニの元に戻っていたという息子さんと同居していた。

その後ハルモニとは一時連絡が取れなくなる。 以前老人亭に通っていた頃にお会いした、ハルモニに気をかけておられた会社経営の方に連絡がついたので確認すると、今はソウル市内の碌磻駅すぐ近くの、医療福祉関係のアパートに移られたようだった。 聞くと、以前の団地が火事に遭い、息子さんを亡くされ、財産も失ったという。 足腰、膝の故障も酷くなり、訪ねていっても食事などに行ける事も少なくなり、行っても我々が食べるだけで、胃腸の弱りでハルモニが外食で食べられるものは少なくなっていった。 家族を亡くされた事で、めっきり元気がなくなり、寂しいようで、行くたびもっと長くいなさいよ、泊まりなさいよ、と引き止められるようになった。 この頃はハルモニの若い頃、日本支配時代に聞いた日本の昭和初期歌謡が懐かしかったようで、日本でそういう音源を借りては、カセットテープにダビングしてハルモニに送ったりしていた。

その後、ハルモニはソウルの北数十km離れた、東豆川市にある老人ホームに引き取られた。 あいかわらず我々家族はソウルに行くたびハルモニに会いに行っていたが、この頃のハルモニはもう立てなくなっており、老人ホームに移って間もない頃は、まだ我々家族が車椅子を押して東豆川市の街を散歩したり、老人ホームの隣の食堂で一緒に食堂に入ったり(あいかわらず食べるのは我々家族だけだったが)もできたが、もう最後の頃はずっとベッドに寝ておられただけだった。 もうほぼほぼ様々な事を忘れておられ、なぜ自分を訪ねる日本人家族がいるのかその経緯も自分では覚えておられないようだったが、でも我々家族が伺うと、一生懸命日本語を思い出そうとしてくださった。 今年の8月最後の老人ホーム訪問時に、施設の方からハルモニが末期の胃がんであると聞かされた。 開腹手術も行ったが、採りきれないものが残っていたものの、90歳越えの体力から考えてもう手術負荷に耐えられないので、採りきれずに腹を閉じたという。 我々が行くといつも穏やかなハルモニだったが、施設の人が言うには、胃がんの痛みからかいつもはとても荒れており、言葉も荒く施設の人や周りの方々にあたっていたという。 我々には懸命に正気を保とうとしているようだ、というような事を施設の人は言っていた。

この年末も、胃がんという事もありそれほど残された時間はないので、韓国行くかどうする?と家族で話していて、結果年末は見送ることになったのだが、家内がふと予感が走って、施設に電話かけてみると、この12月のはじめに亡くなられたという。 身寄りがいないため、もう遺品も遺骨も処分されたと。

ヤマもオチもない話で恐縮だが、25年家族ぐるみでつきあってきた1人の女性が亡くなったということで、あった事を文章に残してみた。 向こうも身寄りがなく、そして関係も赤の他人なので、この程度でも残しておかないと、彼女が生きたという証や、遠い日本の1家族と交流があったという事実も消えてなくなりそうなので、知ってる限りで記してみた。

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