Code for History

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韓国のハルモニが死んだ。

韓国のハルモニが死んだ。死因は胃がん、享年96歳という。

ハルモニといっても、私は日本人だし血の繋がりがあるわけではない。 家内の友人として、独身中に家内と10年、結婚後は私家族と15年、付き合った。

始まりは家内が大学生だった頃、韓国語を覚えたてでソウルに旅行に行った時のことだったという。 家内がソウルの一等地、三一独立運動の発祥地としても有名なタプコル公園に遊びに行った際、老人男性にナンパ(笑)され、連れていかれたのがハルモニの経営する囲碁会所「老人亭」だった。 老人亭はタプコル公園東隣の低い雑居ビル並びの1つの、最上階にあり、ハルモニはそれを明るく精力的に切り盛りしていた。 いつもご老人たちが集まり、囲碁の対戦をしたり語らったりしていたが、そんな客の一人が気まぐれに連れてきた日本人の若い娘を、ハルモニは暖かく迎えてくれた。 以後、家内がソウルに行くたびに、ハルモニのところに寄るようになり、そんな家内をハルモニはいつも暖かく迎え、食事や、時には宿も提供してくれたという。

家内と私が付き合うようになって以降は、私もハルモニと付き合うようになった。 結婚前、家内と私は同じ韓国太鼓のインディーズバンドに所属していたが、その合宿?でソウルに行った際も、老人亭を皆で訪ね、たくさんのキムバプと参鶏湯をいただいた。 ハルモニは戦中世代らしく、若干の日本語が片言で話せた。ハルモニが以前は日韓の囲碁友好団体の役職を持っていたらしい事も関係あるのかもしれない。 誰かから聞いたハルモニは若い頃宝塚の女学校に通っていた宝塚歌劇の卵だったという話を私は長らく信じていたが、家内曰くそれはありえなくて、ハルモニは韓国から出たことはなかったようだ。 多分、最初は老人亭に来ていたご老人の一人がふざけて言った話だったんだと思う。

家内と結婚し、息子が生まれる頃には、ハルモニは老人亭を畳み、ソウル南郊光明市の光明サゴリ駅近くの団地に住むようになった。 息子の手を引いてもらって本当の祖母孫のようにソウル動物園を一緒に回ったり、団地近所の市場を一緒に散歩して、息子に文房具を買ってもらったりした。 団地にも何度か泊めさせもらったが、まだ赤ん坊だった息子が気に入って、もらって帰った大きなハムスターのぬいぐるみは、今の奈良の家に残っている。 この頃のハルモニは、離婚してハルモニの元に戻っていたという息子さんと同居していた。

その後ハルモニとは一時連絡が取れなくなる。 以前老人亭に通っていた頃にお会いした、ハルモニに気をかけておられた会社経営の方に連絡がついたので確認すると、今はソウル市内の碌磻駅すぐ近くの、医療福祉関係のアパートに移られたようだった。 聞くと、以前の団地が火事に遭い、息子さんを亡くされ、財産も失ったという。 足腰、膝の故障も酷くなり、訪ねていっても食事などに行ける事も少なくなり、行っても我々が食べるだけで、胃腸の弱りでハルモニが外食で食べられるものは少なくなっていった。 家族を亡くされた事で、めっきり元気がなくなり、寂しいようで、行くたびもっと長くいなさいよ、泊まりなさいよ、と引き止められるようになった。 この頃はハルモニの若い頃、日本支配時代に聞いた日本の昭和初期歌謡が懐かしかったようで、日本でそういう音源を借りては、カセットテープにダビングしてハルモニに送ったりしていた。

その後、ハルモニはソウルの北数十km離れた、東豆川市にある老人ホームに引き取られた。 あいかわらず我々家族はソウルに行くたびハルモニに会いに行っていたが、この頃のハルモニはもう立てなくなっており、老人ホームに移って間もない頃は、まだ我々家族が車椅子を押して東豆川市の街を散歩したり、老人ホームの隣の食堂で一緒に食堂に入ったり(あいかわらず食べるのは我々家族だけだったが)もできたが、もう最後の頃はずっとベッドに寝ておられただけだった。 もうほぼほぼ様々な事を忘れておられ、なぜ自分を訪ねる日本人家族がいるのかその経緯も自分では覚えておられないようだったが、でも我々家族が伺うと、一生懸命日本語を思い出そうとしてくださった。 今年の8月最後の老人ホーム訪問時に、施設の方からハルモニが末期の胃がんであると聞かされた。 開腹手術も行ったが、採りきれないものが残っていたものの、90歳越えの体力から考えてもう手術負荷に耐えられないので、採りきれずに腹を閉じたという。 我々が行くといつも穏やかなハルモニだったが、施設の人が言うには、胃がんの痛みからかいつもはとても荒れており、言葉も荒く施設の人や周りの方々にあたっていたという。 我々には懸命に正気を保とうとしているようだ、というような事を施設の人は言っていた。

この年末も、胃がんという事もありそれほど残された時間はないので、韓国行くかどうする?と家族で話していて、結果年末は見送ることになったのだが、家内がふと予感が走って、施設に電話かけてみると、この12月のはじめに亡くなられたという。 身寄りがいないため、もう遺品も遺骨も処分されたと。

ヤマもオチもない話で恐縮だが、25年家族ぐるみでつきあってきた1人の女性が亡くなったということで、あった事を文章に残してみた。 向こうも身寄りがなく、そして関係も赤の他人なので、この程度でも残しておかないと、彼女が生きたという証や、遠い日本の1家族と交流があったという事実も消えてなくなりそうなので、知ってる限りで記してみた。

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